箱根駅伝の歴代優勝校と優勝タイム
箱根駅伝の歴史
伝統と歴史
箱根駅伝の正式名称は『東京箱根間往復大学駅伝競走』といいます
東京大手町の読売新聞社前を出発、神奈川県箱根町芦ノ湖までを
往復するコースで、1/2,3の二日間にわたって行われる正月の風物詩です
かつては大手町がスタートとゴールでしたが、現在は東海道の出発点であり日本橋が
ゴールとなるようにコースが変更されましたが、スタートは依然として大手町です
これは大会の共催企業が読売新聞社であることも当然影響しているでしょう
以前は出場15校という時代が多かったのですが、現在は20チーム
(大学19チームと関東学生連合選抜1チーム)の20チーム、
さらに2009年は記念大会で23チームが参加します
また全区間が20キロ以上のコースという日本のすべての駅伝を含めてももっとも過酷な駅伝でしたが、
現在は往路の4区のみ18.5キロのコースに短縮されています
これは長距離選手ばかりではなく、中距離出身の選手にも活躍の場を与えようという方針によるそうですが、
それにしても18キロといっても相当長いですからね
5,6キロのコースでないと中距離ランナーの出番はないと思いますが、せめてラストスプリントが
生きるのは15キロ以内でしょうね
関東の多くの伝統校が大学のメンツをかけて参加する面も否定できず、
OB,OGなども盛り上がりますよね。
箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである
そのために様々なエピソードが生まれた
黎明期
元々箱根駅伝は、日本人によるアメリカ大陸横断のための予選会という
位置づけで創設された
そのためにロッキー山脈越えを想定し、コースの中に山がある箱根の
コースが選ばれた
黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった
また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をしたあとで
午後からスタートすることもあった
このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかった
実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た
山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、
出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた
しかし前述のように選手を心配した地元の人たちが松明を持って伴走するなど
協力があったので、結局は近道をするチームはなく全チームが無事に走り終えることとなった
山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいたという
あるチームは選手の代わりに襷をもらった人力車夫が走ったこともある
(この人物の正体は今も不明だが、快走した模様)が、翌年の出場を
辞退せざるを得なくなった
勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した
選手を関係者がラインまで引きずりこんだにもかかわらず失格にならなかったりと
失格に関する基準も曖昧だった
なお箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績がよく掲載されているが、
公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学が
いくつかある模様である
このようにかつての成績については資料によって若干の違いが見受けられる
第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると
5回以上の出場が可能だった
大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる
第二次世界大戦後
大学進学が現在ほど一般的ではなかった時代は1チームを組むこと自体が難しかった
そのため、戦後すぐの頃までは他の種目の選手が起用されることは決して
珍しいことではなかった
同じ陸上競技でも短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で
ラグビーやスキーの選手が登場した例も多かったという
現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、中には高校時代も
陸上競技以外の部活動に入っていた選手もいる
また、1970年代頃までは実業団経由で入ってきた選手も多かった
かつては戸塚中継所の近くにある東海道線・横須賀線の踏切(戸塚大踏切)を
通るコースが設定されたが開かずの踏切だったため、状況によっては長時間の
立ち往生を余儀なくされた
当時は踏切での足止めによるタイムロスが計算されず業を煮やした選手が
踏切上で立往生した貨物列車のすき間を掻い潜ったり列車が来ない合間を
見計らって踏切を突破することもあった
1939年第20回大会では先行する専修大学を猛追していた日本大学が、
ここでの足止めがもとで優勝を逃したというケースもあり、
このタイムロスを味わった選手は「あの時以来横須賀線には乗らない」と振り返っている
しかし1953年、当時首相の座にあった吉田茂が自分の別荘へ帰る際にこの区間が
渋滞することに激怒、同区間の交通渋滞対策が急遽実施されることとなり
国道1号不動坂交差点から戸塚大坂上(現在の戸塚中継所付近)に通じる道路
(通称「ワンマン道路」)が造られ、これによって結果として戸塚大踏切での
足止めが解消された
1960年代から1970年代にかけては体育系学部を擁する大学が台頭してきたが
この頃は学生運動の時期と重なりそれが好成績にも影響しているとの説もある
選手にアクシデントがあった場合には控え選手を乗せた伴走車を前の中継所まで
引き返させ、そこからの再スタートをとる方法が存在した
現在は交通への影響や選手の安全上、認められていない
またこの伴走車には各校の応援団が大挙して乗り込み選手に声援を送っていたが
危険であるため河野洋平が廃止させた
現行のルールでは行為が発覚した時点で失格となることが考えられる
表彰式では総合優勝校に優勝旗が授与されるが、前年優勝校が大学に
置いたままにしていたために慌てて取りに帰り表彰式の開始時刻が遅れたことがあった
テレビ中継が始まった頃からPRの目的でユニフォームを変更する大学も見られた
繰上げの襷の色が早稲田大学の襷の色に見えるという理由で白と黄色のツートンカラーに変わった
第63回(1987年)では最終10区を走っていた順天堂大学のランナーが突然興奮して
飛び出してきたファンと接触し転倒するも動揺することなく走り続け、
優勝のテープを切ってゴール
(なお、この年にはテレビ放送の全国中継が開始されており、
その影響が招いた事件だとも言われている)
これまでごくまれに悪天候(=降雪)下で開催されたことがあるが
このために交通手段が影響を受け、選手や関係者が到着できずにあわや失格の
危機に瀕した事例もある
緊張のあまり襷をせずに走り出して、慌てて戻ってきた選手もいた
箱根山中で箱根登山鉄道の踏切に駅伝の隊列が引っかかり、
止むを得ず選手を先に行かせて関係車両が後から追いかけるハプニングもあった
最近ではバイクカメラによる中継で選手を後ろから追うことも多くなっているが、
このハプニングの際には通常は選手の正面から撮影している大型の中継車が選手の
後姿を放映するという、当時としては珍しい映像が放送される事態になった
大会を支えているのは関東学生陸上競技連盟に加盟している加盟校である
創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている
箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの
選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、
トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣される
(過去には末續慎吾、為末大なども走路員としてスタッフに加わった)
このことからも分かるように箱根駅伝は実は単に長距離選手だけで行われているのではなく、
多くの裏方に支えられている
その裏方とは種目は違えど、一緒に汗を流すチームメイトでもある
前回大会でシード権を逃した大学と、次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学が
全て一致するという事態は、過去に予選枠が6校だった第56回-第57回、第61回-第62回と、
予選枠が9校になってからでは第82回-第83回の計3回しか起きていない
沿道で配られる読売新聞社と報知新聞社の紙製応援小旗には近年懸賞応募券が付いていた
これは使い終わった小旗を観客が沿道に捨てるのを防ぐための工夫であった
ちなみに2007年の懸賞は1等から8等まであり、1等は「箱根ホテル小涌園 宿泊招待券」だった
なお2010年の応援小旗は布製で、読売新聞社の小旗は読売新聞の社旗デザインが染め抜かれ
上部に「第86回箱根駅伝」と記されている
一度大学を卒業したが箱根を走りたいと言う思いだけで有力校に再入学し、
箱根を走った選手がいた